Wednesday, March 13, 2013

社長だった2002年、副社長の妻幸子さんとともに退任し、会長に就いた

夢の車 ゼロから挑戦光岡進(みつおか・すすむ) 73歳 光岡自動車会長 幼い頃から、模型飛行機、バイクと、エンジンで動く物が好きでした。当時は珍しかった乗用車に乗りたくて、まず自動車販売会社で働き、28歳で脱サラして自動車修理業を始めました。馬小屋で出発 作業場を確保するため、電話線が引かれている土地を探したら、たまたま農家が馬小屋を貸し出していました。賃料が安いし、車も2台入る。従業員2人での出発でした。そのうち修理だけでなく、中古車も売るようになりました。 仕入れで全国を飛び回っていた1980年、大阪で見たことのない小さな車が目の前を走りました。追いかけて運転手に聞くと、イタリア製の1人乗りの「ミニカー」だと。存在感があって面白そうなので、すぐに仕入れて自分の店で売りました。 ところが、すぐに壊れ、お客さんが持ち込んできた。仕入れ先は夜逃げをして連絡が取れません。仕方なく自分たちで修理していると、仲間が「造りは単純だ。俺らでも造れるぜ」とつぶやきました。自動車は大メーカーしか造れないと思い込んでいましたが、そのひと言で目覚めました。朝から晩まで工場にこもり、ミニカー製造です。面白くて、他の仕事は手につかなくなりました。 82年に、ついに自分たちで開発したミニカーを発売しました。原付き免許で乗れる手軽さが受けて、売れ行きはうなぎ登り。ブームは全国に広がり、新工場を建てて「年1万台生産する」とぶち上げました。しかし、85年に道路交通法が改正されてミニカーの運転に普通免許が義務づけられると、販売は急減しました。 それでも諦めずに新型車を出すと、ある日、副社長だった妻に突然、「緊急役員会を開く」と呼ばれました。会議では、妻に「ミニカーの製造をやめてもらいます。それができないなら、社長を辞めていただきます」と告げられました。中古車販売の利益を食いつぶして開発に没頭する私に、妻が耐えられなくなったのです。「いつか再起できる」と言い聞かせ、その場で生産中止を決めました。目標がなくなり、しばらく抜け殻のような日々を送りました。霞が関通い【19年前】1993年、後に乗用車メーカー第1号車となる「ゼロワン」の試作車に乗る光岡氏 結局、(車をクラシック車風に造り替えた)レプリカ車を造るのに夢中になって立ち直りました。でも、レプリカ車を売るうちに、「自分たちで一から造った方がいい車を造れるはず」と思うようになりました。多くの車を車体から製造するには、国から自動車メーカーとしての認可を得なければなりません。「今度は自動車メーカーになって、光岡の名の入った車を造りたい」。そう思い、東京・霞が関の運輸省(現・国土交通省)を訪ねました。 官僚には「無理でしょう」と言われました。「田舎のおっさんが何を言っているんだ」という顔です。でも、どうすればメーカーになれるか尋ねても、はっきりした答えは返ってこない。メーカーになるための明確な基準がなかったのです。「基準もないのに、できないというのはおかしい」と何十回も霞が関に通いました。筋の通らないことが嫌いな性格もありましたが、メーカーになるのは夢そのものでした。何千という項目で資料を請求されましたが、諦めませんでした。 最初の運輸省訪問から4年後の96年、ついに国内で10番目の乗用車メーカーに認められました。最初に開発したスポーツカーは「ゼロワン」と名付けました。無から有になる。そんな意味を込めました。うれしくて、「ミツオカ」と社名が入った車検証は写真に撮って、年賀状にしましたよ,「タトゥーを入れようという人は、リスクがあることを知っておくこと。 大量生産をする力はありませんが、存在感のある車を造りたい。蛇のような外観のスーパーカー「オロチ」もその一つです。6年前に作った「造りたい車リスト」は遅れながらも、少しずつ実現しています。夢はまだ、続いています。(聞き手 小林泰明)◇(略歴) 1939年、富山市生まれ。57年、富山工高卒。日産自動車、日野自動車の販売会社を経て、68年に前身の光岡自動車工業を起こした,背が低くて太った警官は市民の目に触れちゃダメ。社長だった2002年、副社長の妻幸子さんとともに退任し、会長に就いた。現在の愛車は、自社の電気自動車「雷駆(らいく)」。常識にとらわれず自らの考えを貫く意味の「我流(がりゅう)人生」の言葉を好む。《こんな会社》 本社は富山市にあり、1968年に光岡自動車工業として創業した。79年に株式会社化し、96年にホンダ以来、32年ぶりとなる国内10番目の乗用車メーカーに認可された。「ビュート」、「ガリュー」など欧州車のデザインを採り入れたレトロ調の車が多く、これまでに開発した車は13車種、累計販売台数は約2万台。2010年にタイで現地生産を始めた。従業員数は約600人。(2012年10月15日読売新聞)

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